宗教論




ぶらりと立ち寄ったビアホールで、いままで旅してきた中でもっとも美味しいものに出会ってしまった。
Svickova na smetane(スビーチコヴァー・ナ・スメタニェ)という食べ物だ。 仔牛のヒレ肉の上にかかる濃厚なシチュー、さらにその上に生クリームとベリー系のジャムが乗っている。

生クリームとベリージャム・・・どういう組み合わせだオイ・・・。 チェコの伝統料理だが、いかにもちょっとした酸味を好むスラヴ系の発想だ・・・。 

モグモグ・・・ ぐぁっ!!

にっ・・・肉が・・・とろけるほど柔らかい、そして肉汁と野菜の旨みが存分に出た深く濃厚な金色のソース・・・そして、生クリームとベリーが交わり、舌の上で悪戯するほどよい酸味とマイルドな味わい・・・。

これは、これまで生きてきた中で、5本の指に入るスゴ旨だ。 間違いない。 こんな美味いものは、そう無いぞ・・・。 クネドリーキに染みこむソースとベリー・・・。 そして仔牛の肉汁・・・。 何てことだ・・・ チェコ料理・・・なんて事だ。 チェコ料理はこんなにも凄まじいことになっているのか!? 恐らく、これは日本人の多くが知らないだけで、僕は恐ろしい発見をしてしまったようだ・・・。

チェコ料理は無茶苦茶に美味い!!!

激しく感動してしまった。 横においてあるビールを飲むのも忘れてしまうくらいに美味い。 思わず一心不乱に食べてしまった・・・。 この国は本当に恐ろしい・・・。

ホールの金髪女子が早食いの僕に気付いて「日本人でしょ?」と聞いてくる・・・。「ああ、そうだよ。何故分かった?」と言うと、僕のノートを指差し、さっき書いていたのをじっと見ていたと・・・というような事を言っている。 恐らく最近のネオジャポニズムにて、ひらがなやカタカナの形を知っているのだろう・・・。 

料理を指差しながら「ところで、これは最高に美味いよ」と言うと、「よかった!! 私も一番大好きな食べ物だから!!」と言いながら満面の笑顔だ。 

巨大なジョッキのビールを飲み干し、口についた白い泡をふき取り店員に「ご馳走さん、そろそろ行かなきゃ」と言うと、女性店員たちはみんな出てきて、「チェコ語を喋ってくれて、どうもありがとう」と言っている。 何だろう・・・耳が熱くなり、立っている金髪女子たちが滲んで見えてきた。  まさか、食事に来ただけでそんな事を言われるとは思っていなかったのだ・・・。 そして、完全にあの日を思い出している・・・

そう、10年以上前に韓国で聞いた言葉と全く同じなのだ・・・。 今にも泣きそうだ・・・何故なら明日の夕方、日本に帰らないといけないのだ。 ずっとこの街に居たい。 そんな気持ちでいっぱいなのに・・・。

でも、もう時間が無い。

みんながハイタッチしてくるので、それに応じて僕も涙目でハイタッチ。 店員は「今から何処に行くの?」と聞くので「カジノ」と言った。 すると首をひねりながら「プラハ楽しい??」と聞いてきた。 

「この国とこの街がとても好きだ」と言いながら僕が笑うと、彼女たちは「私もJapan大好きだよ!!」と言っている。  ・・・なんていい子たちなんだ・・・。 そういえば、今まで日本で読んだ本ではチェコ人は愛想が悪いとばかり書いてあった・・・。 なのに、この国の人々は僕が一生忘れないくらい、親切な人ばかりだった。 所詮、旅なんて来てみないと分からないものなのだ・・・。 今、またそれを実感させられている。 



かつて韓国で感じていた、普遍的な人間の「善」を、遠く離れたヨーロッパの、この街が再認識させてくれた。 僕はこの街に何を求めて来たのかを思い出し始めた。

僕は、韓国を知り、我が国の暗部を知り、そしてさらに祖国を愛した。 しかし韓国と日本を同時に愛すれば愛するほど、互いの上に横たわる利権や辛い歴史、そして歪んだ差別意識というものが何のためであるかという事が痛いほど分かり、それが分かれば分かるほど辛く、許せなかった。 

そして、身の回りの世界にもそれと同じ「嘘っぱちでクソッタレの腐れた世界」が広がっており、純粋な心を持った仲間が倒れていく事、そしてそれを止めることの出来ない「権力主義」に我慢できなくなっていた・・・。 

黙ってこの世界に生きるしかないという、ある意味日本的な、腐れた人間が更に悪の温床を強固にしてゆき、未来に闇が見えるほど、僕は荒んでいた。

精神は、キルケゴールやニーチェを求めていた。

このプラハに到着したとき、「プラハは泣いている」と書いた。 権力と金いう名のクソ溜めを蹴飛ばしたくて仕方なくて、この街で自分が今まで嫌いだった宗教と向き合う事になった・・・。 そして、そこからはじめて「実存」というものの輪郭がハッキリしたのも事実だ。

宗教は不公平な世の中の慰めでしかない・・・。 だから僕は教会に入った・・・。 宗教は自身の内面における闘争や葛藤が前提にあり、その中で生きるために存在していないだろうか? 

宗教の中にある神は、人間が利用するために創造した神であり、真理なんていつまでたっても見えないのだ。 何故なら、見えないままでいいからだ。 権力というものは、宗教の神を利用するだけ用は足されているのだ。

それでは、何故プロテスタントから「権力主義」だと揶揄されるカトリックに身をおいてしまったのか・・・と誰もが感じるだろう。 答えは、このプラハの人々、そして韓国とフランス、そして今回痛いほど分かったボヘミアの歴史が僕に教えてくれた。 

権力を否定すると、また争いが生まれるだけなのだ。

この旅で、ヤン・フスやヤン・パラフの精神、そしてプラハの人々の精神から教えられたことがある。 それは、「闘わずして平和と繁栄を勝ち取れ」という事だ。 

僕は神について「死んだ」と書いたが、神を否定するならば死ぬ対象としてわざわざ神を持ち出さない。 スタヴォフスケー劇場にてアマデウスのレクイエムを聴き、僕が今まで思っていた神が死んだ。 それだけなのだ。



僕は10代の頃から、ずっと旅をしている・・・。

これまで宗教から真理を求めることはなく、積極的に旅に出る事によって真理というつかみ所のないものを求めてきたのかもしれない・・・。 そしてまた、この旅によって「宗教」というものと向き合い、真理というものを違う角度から伺おうとしている。

酔っ払っているのだろうか・・・。 

日が暮れたプラハの中心街で石畳の輪郭を照らす車のヘッドライトが僕の前をいくつもいくつも通り過ぎてゆく。


僕の中で、ひとつの結論が出た。 


僕にとっての宗教は、やはり旅だった・・・。 僕はずっと旅によって求道してきたのだ。 偶発的に現れる真理の欠片を求めながら、ただひたすら彷徨い、死ぬまで旅を続けよう・・・。 旅を続けていることが、僕が僕である理由なのだ。 

たとえ真理を掴めなくても、純粋に人を愛する心、そして愛された時の感謝を忘れなければ、それだけで幸せに生きていける・・・。 旅によって、沢山の人々から愛されてきた。


もしかすると、神が僕に旅をさせているのか・・・。


それならそれでいい。 自分からも積極的に旅を続けるまでだ・・・。 神が僕に手を差し伸べるのなら、僕も手を差し出すまでだ。 旅を続けること・・・それが僕の全てなのだから。

コメント
コメントしてあげる








   
この記事のトラックバックURL
トラックバック


カレンダー

S M T W T F S
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  
<< May 2018 >>

K-POP TOP20

トロット放送

suuのおすすめKPOP

為替レート

記事

記事の種類

バックナンバー

読者様のコメント

リンク

suuちゃんとは??

サイト内記事検索

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM