セザンヌ

今、僕の目の前にセザンヌがいる・・・。物凄く神経質で、物凄く頑固者で、物凄くヒッキーで・・・。 とにかく芸術を爆発させた人だ。

ところで僕は芸術の為の芸術が嫌いだ。

かつて僕が好きなセザンヌはこう言った。

「自然を円筒形と球形と円錐形によって扱いなさい。自然は平面よりも深さにおいて存在します。そのため、赤と黄で示される光の震動の中に空気を感じさせる青系統を入れる必要性があるのです。」


これは凄い言葉だと思う。 「目の前の世界や他者の芸術、そして周囲のウザい奴等に私は窒息してますよ」と言いたいと僕は解釈してしまう。


よく想像して欲しいのだけど、この言葉を聞くと、彼が自分の目で色んなものを見ながら、世界をバラバラに分解して、それらを愛撫しながら絵の中に再構築している様子がよくわかるのだ。

つまりセザンヌは社会に生きているのではなく、自分の体内で息をしていて、自分の外で窒息しているような気がする・・・。

全ての画を見ていて分かるが、セザンヌの絵には入っていけそうな気がする。 これは、セザンヌが「これなら入ってもいいよ」という世界に対する願いを込めて描いているからではないだろうか・・・。



それを感じるとき・・・芸術に泣けてくるのだ。 


つまりセザンヌは社会を自分の理想に変えることによって、そこに住みたがっているような気がする。 そして僕はセザンヌの絵の中に住みたがっている。



物凄くこの人の気持ちが分かる気がする。 社会って本当に窒息するよな・・・。 クソったれの世の中だ・・・行くぜロケンローって感じ。


セザンヌはよく、キュビズムやフォービズムの親の様に言われる。

しかし僕は全く違う事を感じている。

セザンヌは芸術を至上とした考え、または画家の苦悩逃れによる快楽描画の言い訳に利用されただけだ・・・と。

なぜセザンヌが利用されやすかったかというと、彼の特徴である「社会性のなさ。つまり悪く言えば人格破綻」が快楽描画という「楽」の芸術を論理付ける為に最適だったからではないだろうか?

しかし僕はセザンヌの画を見ながらそれを物凄く悔やむ。


この人は決して「楽」を描いていない。


キュビズムが嫌いと僕はいつも言う。 しかしピカソの絵は好きだ。 これを矛盾という人は言えばいい。 僕はピカソのキュビズムに感心するが、これらは生きる苦悩を描いていない。 つまり、人間性に背を向けた芸術とはこのことだ。 



僕は芸術に愛を求める。



キュビズムに心を掴まれる事はないのだ。 もし心を掴まれているのならば、それは自ら画を描く人間だけだろう・・・。

今はこう感じているのだ。 セザンヌの絵の前で彼の複雑な愛の結晶に涙が出てきたのだ。

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